星田神社-ほしだじんじゃ-
星田神社
鎮座地

大阪府交野市星田2-5-14

御祭神

本殿   表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫命(神功皇后)
交野社  天照國照彦天火明櫛玉饒速日命、健速須佐之男命、大雀命(仁徳天皇)
八幡社  誉田別命(応神天皇)、息長帯姫命、大雀命(仁徳天皇)

祭日

例祭  10月17日
えびす祭  1月9、10、11日

由緒

 当神社の創建の年月は詳らかではありませんが、伝えによると、現在本殿の住吉四神をお祀りしたよりも遥か以前に、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として、当地方の交野物部の御祖である櫛玉饒速日命(交野大明神)をお祀りいたしておりました。その後、宝永年間(一七〇四~一七一一)総社である磐船神社の御分霊を当地にお遷ししてお祀りするにおよび、交野大明神のお社よりも大きな神殿が建てられることとなりました。それ以後、交野社は古宮と呼ばれるようになり、また大杉も枯死したので、その芯を御神体として、お祀りするようになりました。それは鎌倉か、室町の時代か、いずれにせよ当社最古の神であります。西井長和氏所蔵の天文四年(一五三五)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記載されております。また文化二年(一八〇五)の三浦蘭阪著『川内奨撫古小識』には、当神社に正平二十一年(一三六六)の銘の石塔があったと記されております。また八幡社はもと新宮山の頂上にお祀りされていたが、明治維新の神仏分合整理によって、明治七年九月にここに遷されたものであり、昔は山城の石清水八幡宮を本宮、こちらを新宮と云われました。平安時代、このあたりは、石清水八幡宮の寺領荘園となり、この地域の守護神として八幡宮の御分霊を新宮山に勧請したのに始まります。
 明治五年村社に列せられる。



境内社・星田妙見宮(小松神社)
星田妙見宮(小松神社)
鎮座地

大阪府交野市星田9-60-1

御祭神

天之御中主大神、高皇産靈大神
神皇産靈大神(仏教にては北辰妙見大菩薩、道教・陰陽道にては太上神仙鎮宅靈符神と云う)

祭日

例祭(星降り祭)  7月23日
星祭り  2月8日
七夕祭  7月7日

由緒

太古より生駒山系は磐座信仰が盛んであり、この中にあって当宮は現在残る数少ない磐座信仰の霊場です。
平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(八一〇~八二三)に、弘法大師が交野へこられた折、獅子窟寺吉祥院の獅子の窟に入り、佛眼仏母尊の秘法を唱えられると、天上より七曜の星(北斗七星)が降り、それが三ヶ所に分かれて地上に落ちたと言います。この時よりここに「三光清岩正岩の妙見」として、祀られるようになったといいます。現在もこの伝説は当地に残っており、星が地上に落ちた場所として、一つは星田傍示川沿いの高岡山東の星の森、もう一つが星田字乾にある降星山光林寺境内、そして今一つがこの星田妙見宮であり、小松神社の御神体であります。そしてこの三ヶ所の一辺が八丁有ると言われ、俗に八丁三所と言われるようになりました。
 平安時代には「神福寺」と称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には「嘉承元年(一一〇六)九月二十三日 星田神禅寺」と見えます。また『東和久田系譜』延宝六年(一六七八)には「釆女迄三代妙見之別当ショクニシテ御供燈明捧ゲ御山守護致由候緒也」と記されており、応永九年(一四〇二)生まれの和田出雲安直、将監安道、釆女安国の三代にわたり、当宮の別当職であったことが分かります。
 天文四年(一五三五)の神明帳には、小松大明神と記されています。明治三十九年十一月 星田神社境外社となる。