磐船神社-いわふねじんじゃ-
磐船神社
鎮座地

大阪府交野市私市9-19-1

御祭神

天照国照彦天火明奇玉饒速日尊

祭日

5月5日

由緒

 当社御祭神饒速日尊は『古事記』『日本書紀』や『先代旧事本紀』などの古典によると、天照大御神の御孫神にあたり大御神の神勅により、高天原より天の磐船に乗って河内国河上の哮が峰(いかるがみね)に降臨され、天津神として初めて大和国に入り大和河内地方を開発し、我が国建国の礎を築かれたと伝わる。神武天皇が日向より大和に東遷され橿原宮において初代天皇に即位された後、尊の子宇麻志麻遅命は天皇に仕え、後の物部大連の祖となる。交野の地に於いては肩野(かたの)物部と呼ばれる一族が栄え、交野が原に農耕文化を伝えた。
 当社は尊が降臨の際に乗ってこられた天の磐船と云われる巨石をご神体として祀る磐座であり物部氏が中心となり祭祀を行っていたが、物部本宗家が蘇我との争いに敗れた後は交野の地からも物部の勢力が一掃され、秦氏をはじめとする帰化系の氏族が入り、後に平安京の貴族たちが交野が原において歌枕や狩り場を求めるようになると、当社も饒速日尊降臨の地としての信仰が衰微し、航海の神、和歌の神である住吉信仰の影響を受け、主祭神が住吉神に変更されてしまう。また、神仏習合の影響を受けて当社境内にある岩窟が平安時代には生駒修験道の行場となり、修験道の霊場として栄えていたようである。江戸時代には私市、星田、河内田原、大和田原四村の総氏神として各村の宮座が輪番で祭祀を行っていたが、宝永年間打ち続く天災により社殿神宝の多くを流失し、それを発端に四村宮座の内に諍いが起り、ついに各村それぞれに御分霊を神輿に乗せ、残った神宝類と共に持ち帰り地元に新たに氏神の社を設け、それ以降当社は衰退の一途をたどった。昭和のはじめの頃にはご神体をはじめとする巨石群と小さな祠が残るばかりの状態であったが、御祭神の御神威を仰ぐ多くの人々の奉賛を得て、社殿その他を整備し、御祭神も元に正し、現在の姿に復興されたものである。

 当社岩窟は天の川の渓谷の上に数多くの岩石が覆いかぶさり、大小の空洞をなし、まさに岩の神殿の様を呈している。饒速日尊は降臨に際し天津神の御祖より十種瑞神寳(とくさみずのかんだから)を授かり、それにより、鎮魂を行い病に苦しむ多くの人を救われ、現在石上の鎮魂行法として伝わるが、病気平癒の祈祷の根本の神様として神道のみならず修験道、密教などの各宗派の行者がその神威を我が力とするため、当社岩窟はその行場となり、現在もその伝統が残っている。また行場岩窟は一般参拝者にも岩窟巡りとして公開しており、行を体験する事ができる。