四条畷神社-しじょうなわてじんじゃ-
四条畷神社
鎮座地

大阪府四條畷市南野2-18-1

御祭神

主神 贈従二位 楠木正行卿

配神

贈正四位 楠木正時朝臣
以下二十四柱

祭日

例祭  2月12日
春大祭  4月5日
秋大祭  10月5日

由緒

 当社の主祭神楠木正行公は、楠木正成公の御嫡男で、忠孝両全、情厚く、知勇にすぐれ、検非違使、左衛門尉となり、河内守をも兼ねられた。地元の人たちからは小楠公さんと慕われている。父正成公は、延元元年五月二十五日湊川の戦で自刃された。出陣に当り、御年わずか十一歳の若さの我が子正行公と桜井の駅(三島郡島本町山崎)で今生の別れをされ、「父の死後は足利の天下になるだろうが、どこまでも正統の天皇をお守りせよ、それが父への孝行になるのだ」と遺訓を残され、身も心も我が子に伝えて出陣された。(桜井の駅にある子別れの碑は、この話に感激した英国公使パークスが最初に建てた)。足利高氏より送られてきた父正成公の首を見た時、悲しみ余り後を追って自害しようとしたが、「父正成公と桜井の駅で今生の別れをした時の遺訓を忘れたのか」と母に懇々と諭され奮起し、不利を覚悟の上一身をなげうってあくまでも正統の天皇を守り、朝敵征伐を宿願とされた。積極的な戦法でしばしば敵を破り、正平二年十一月の瓜生野の戦い(現在の平野区瓜破西付近)では、数倍の敵を父正成公ゆずりの見事な采配によって打撃をあたえた。敗走する多数の敵兵が、渡辺橋(現在の中央区天満橋付近)から落ちて溺れるのを正行公は救いあげ、折からの寒気に凍える者に衣薬を与え、傷の手当をして京都へ送り返された。(ナイチンゲールが、敵、味方の区別なく、傷ついた兵士を看護した約五百年も前の話であった)。この博愛の精神が、明治になって西洋の赤十字精神が日本に入ってきた時、日本人に受け入れられる礎ともなった。足利高氏は、度々の敗戦に驚き、腹心の高師直、師泰を総大将に八万の大軍を向かわせた。正行公は、この戦いに死を覚悟し、吉野の行宮に参内し、後村上天皇に「此度は、敵も大軍を集めて攻めて参ります。私も生きるか死ぬかの大決戦を致します。最後の思い出に天皇のお顔を拝してから参りとうございます」と申し上げた。天皇は「私はお前を自分の手足のごとく思い頼っている。決して無理なことはしないように」と仰せられ、天皇のお言葉に感泣して、先帝後醍醐天皇の御陵を拝し、次いで如意輪堂に行き一族一四三名の名を留め、

 『かへらじと かねて思へば あづさ弓
  なき数に入る  名をぞとどむる』

の辞世の歌を記して出陣された。
 正平三年正月五日三千の兵を率い枚岡の往生院に本陣を置いた正行公は、一挙北進し、深野池の東野崎に構える高師直の先陣を撃ち破り、四條畷に進出し、正行軍は、全軍一丸となって突き進み、その奮闘に敵勢はたじろぎ、一度は、師直の本営に迫り師直を討ち果たしたかと思ったが、上山某なる替玉であった。その後激戦は続いたが、多勢に無勢、兵力不足はいかんともしがたく、残るは三〇名足らずとなった。ご自身も重傷を負い、後方との連絡も経たれ、ついに二十三歳を一期として、深野池の東北、葦の茂れる所にて、弟正時公と差し違え自刃された。(このところをハラキリといった。古戦田なる地名も三カ所あった。騎士道の国英国のイートンパブリックスクールの壁には、小楠公四條畷奮戦の図が掲げられているとのこと)。
 小楠公の御墓所は当社参道を下り西へ約一キロ、往時深野池の堤防であった所にある。正行公は大東市字ハラキリにおいて自刃されたが、ご遺体は直ちに現在の場所へ移され南無権現と書いた小碑を建て二本の楠を両脇に植えて墓とした。その楠は現在幹廻り十メートル以上の大木に成長し、大阪府の天然記念物に指定されている。
 明治維新の後、住吉平田神社の神主三牧文吾氏らは小楠公自刃の地四條畷に、神社創建を熱心に願い出、その後再三懇請し、明治二十二年六月に、当時大阪府知事であった西村捨三氏より明治天皇に神社創立並に、社号の願出をし、有志の創立願いが、明治二十二年六月二十九日旨聞き届けられ、明治二十二年十二月十六日に明治天皇より神社創立の勅許が下り、『四條畷神社』の社号がくだされ、別格官幣社(主に国家の忠臣を祀る)に列格された。地元の人々は、土地、金品を寄進し、土を運び石を積んで奉仕し、立派な御社殿が完成し明治二十三年四月五日御鎮座祭が斎行された。明治天皇は、父正成公に劣らぬ所の忠節を嘉せられ、御祭神正行公には明治三十年四月六日に従二位が、追贈せられた。
 平成元年には、御本殿を始め拝殿等の修復、社務所の新築、境内地の諸施設の整備拡張を行い、平成二年十月五日には、御鎮座百年奉祝大祭が斎行された。