- 鎮座地
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大阪府守口市馬場1-11-11
- 御祭神
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天御中主命
- 祭日
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歳旦祭 1月元旦
初午祭 2月初午
夏祭 7月23日
御例祭 10月23日
- 由緒
日本神話によれば、天地開閉の時、高天原に最初に現れた神とされています。また天孫降臨依然から大和の国にい坐せしかみとも云われ、天御中主神を御祭神とするところから、当社の歴史の古い事が伺われます。太古の昔より、この地の氏神として、各時代の人々は、御神徳を称えて奉祀してまいりました。
○当社の沿革(式内社)
当社は延長五年(九二七年)醍醐天皇の命により編纂された律令(法律書)延喜式の「神名帳」に所載された神社で、式内社と呼ばれ、全国約八万二千社と云われる神社の中で、この式内社は二千八百六十一社に限られ、日本で公式な記録に残る最古の神社の一つです。守口市内では、当社と金田町の津嶋部神社の二社です。又当社の付近から出土した流水文様の弥生式土器は西暦紀元前後の土器と推定され、当社では、約二千年もの昔から祭祀が行われていたと推測されております。
○鬼門の守護・厄除けの神
当社は古代の難波の宮「現在の大阪城付近」の表鬼門の地に鎮座坐す処から、鬼門の守護神として、又 厄除けの神として、先史時代より南北時代迄は河内十七ヶ庄の里人の尊崇した神社で有りましたが、戦国時代の元亀天正年間の織田・三好の兵火で焼失、その後衰徹しましたが祭祀は続けられ、現在の本殿は貞亨四年(千六百八十七年)拝殿は文化十年(千八百十三年)の建物であります。
○高瀬の里と諸芸・諸道上達の神
古代、当社付近は長柄船瀬と云う大阪湾東端の港で、当地方は住吉大社の神領と考えられております。又 平安時代から鎌倉時代には、当社付近は淀川と大和川の水路の交わる要地で淵や瀬の趣、淀みに茂る水草、水鳥の風情里の風物など、詩情豊かなところで、多くの公家や大宮人等が数多く、当地を訪れ多くの和歌を当社に献じ、それが各勅撰・私撰の和歌集に遺されております。
さしのぼる 高瀬の里のいたずらに
通う人なき 五月雨の頃
衣笠内大臣
水まさる 高瀬の淀の真こも草
はつかに見ても ぬるる袖かな
殷富門院大輔
又、室町時代中期に河内榎並に起こり、やがて五流能の一つ金春流に吸収された榎並猿楽の人々から、当社は手厚い信仰を受け、芸の上達を祈願されたと伝えられております。
以上当社は、太古の昔より、当地方の氏の 神・守りの鎮守として、鬼門の守護神、除厄招福の神、諸道・諸芸上達の神、諸願成就、家内安全等、あらたかな御神徳をお授け頂き、氏子・崇敬者の信仰を大きく集めて参りました。