百濟王神社-くだらおうじんじゃ-
百濟王神社
鎮座地

大阪府枚方市中宮西之町1-68

御祭神

百濟王神、進雄命(牛頭天王)

祭日

例祭  10月15日

由緒

 天の川を一望する高台に鎮座する当社は、奈良時代(八世紀後半)百濟王氏の祖霊を祀る祠廟として、東隣にその跡を残す百濟寺とともに創祀されたと思われるが、現在は枚方市中宮・堂山・池之宮他の産土神として、広く篤く崇敬されている。
 百濟国王第三十代義慈王の子、善光(禅広)は、天智天皇二年(六六三)、百濟本国が我が国の救援むなしく、唐・新羅の連合軍に滅ぼされたため日本国に帰化し、持統天皇七年(六九三)、「百濟(くだら)王(のこにきし)」なる氏族名を賜り、百濟を逃れて来朝した亡命貴族等を率いて朝廷に仕えた。
 聖武天皇の御代、東大寺大仏造立に際し、 陸奥守であった百濟王敬(きょう)福(ふく)(善光の曾孫)は大仏塗金のための黄金九百両を献上した。

 天皇(すめろき)の 御代(みよ)栄(さか)えむと 東(あずま)なる
  陸奥山(みちのくやま)に 黄金(くがね)花咲(はなさ)く
                                   (大伴家持)

 天皇は大いに喜ばれ、天平二十一年(七四九)、敬福は渡来貴族としては最高位の従三位に叙せられ、宮内卿・河内守に任ぜられた。これを機に、百濟王氏一族は難波の居住地を離れ、以前より関わりの深かった、ここ河内国交野郡中宮の地に住まいを移し、祖霊を祀る祠廟と寺を建立したのである。
 百濟国王第二十五代武寧王の子孫、高野新笠を母に持つ桓武天皇は、「百濟王等は朕の外戚なり」との詔を発せられ、度々交野に行幸された。敬福の子孫は百濟楽を奏でて叙位にあずかるなど、平安時代初期の天皇家と百濟王氏との密接な結びつきが国史に散見される。
 その後、天皇の遊猟も絶え、百濟寺も焼失してしまうが、祠廟の祭祀は続いたものと思われる。
 百濟王氏の子孫である三松(みつまつ)氏は、代々河内検断職を兼ね祠廟に奉仕したが、文禄年間(一五九二~一五九五)、豊臣秀吉により中宮の地を追われ、所領であった大垣内に居を移した(大垣内の百濟王神社は、その邸内社であったと思われる)。その後も三松氏は祠廟の祭祀を続けたが、江戸時代中ごろ、天の川の洪水が続き大垣内からの参詣がかなわなくなった。
 以来当社は中宮の産土神として村人により守られることとなった。
 延宝九年(一六八一)の寺社改帳に、「中宮村氏神無年貢地、百濟国王、牛頭天王相殿一社、社僧真言宗古儀、無本寺 梅坊住持秀宣、宮座四座、人数百十四人、内一年一座より一人づゝ四人宮田支配、神主役は村中相談の上相究、一代一元神主役相勤候、当神主役 五左衛門」とある。
 現在の神社を形成する建造物、石造物はすべて江戸時代中期以後のものである。
 最も古いものは正徳三年(一七一三)の南端石造鳥居で、「百濟国王牛頭天廣前」の銘が彫られている。また、享保五年(一七二〇)の手水舎石造水盤、天保七年(一八三六)の山車一基他、江戸時代後期の石造狛犬・多数の灯籠が現存する。
 本殿については、高欄の凝宝珠(ぎぼし)銘に「文政十丁亥年 百濟国王牛頭天王 河州交野郡中宮村」とあること、正統な春日造りであること等によって、文政五年(一八二二)の春日大社の造替に際し、その一棟を下賜されたものと考えられている。
 なお、進雄命(すさのおのみこと)(牛頭天王)が合祀された由来はあきらかではないが、百濟王神とともにその霊験はあらたかである。
 明治五年(一八七二)村社に列し、同四十一年(一九〇八)神饌幣帛料供進社に指定された。境内社として、浮島神社、八幡神社、相殿社、稲荷神社が祀られている。
 昭和三十年再興された社殿は、更に平成十四年、新しい拝殿に建て替えられ、整備された境内は落ち着いた趣となっている。
 また、発掘調査時に出土した塼仏(せんぶ つ)は、府の有形文化財に指定されている。隣接する百濟寺跡は百濟王神社境内地にあり、昭和二十七年に国の特別史跡に指定され、昭和四十一年、日本初史跡公園に整備された。
 平成十七年より、枚方市教育委員会による再整備計画が進められ、それに伴った再発掘調査が行われている。(平成二十一年九月)