意加美神社-おかみじんじゃ-
意賀美神社
鎮座地

大阪府枚方市枚方上之町1-12

御祭神

高神、素盞鳴尊、大山咋神、大国主神

祭日

10月15日

由緒

当社の創建年代は不詳であるが延喜式内の古社である。当社は元伊加賀宮山の地にあり、産土神として、又淀川の鎮守として御神威高く、古来航行の船人達が通行の安全と水害排除祈願のために創建、開化帝の御代、伊香色男命、伊香色女命の邸内にあったと伝えられる。
明治五年村社に列せられ、同四十二年十二月神饌幣帛料供進社に指定された。明治四十二年十月十四日村社須賀神社(素盞鳴尊)村社日吉神社(大山咋神、大国主神)を合祀、翌十五日境内狭隘のため、須賀神社の旧地である現鎮座地に遷座した。昭和九年大風害で社殿・社務所を大破、同十年十月現社殿・社務所を復興した。合併した須賀神社は、牛頭天王社(祇園社)と称し、もと現鎮座地にあり、清和帝貞観十四年、天下に悪疫流行の時、万年寺の開祖聖宝上人が天皇より神璽を賜り、終熄祈願のため山上に勧請した。爾来諸病平癒に神験がある。万年寺は明治三年廃寺となり、社は同五年村社に列せられた。日吉神社は岡の地にあり、山王大権現と称した。往古洪水に際し、日吉神社の御神体が流れ来り、村人が家に持ち帰ったが、霊験顕著なので氏神として奉祀したと伝う。一説には伝教大使が平安京の裏鬼門に当る此の地に阿弥陀仏及び日吉大神の二像を作り、皇城の鎮護の社寺と定めたとある。
後応仁の兵火に焼亡したが、慶長五年枚方城主本多政康が一乗寺と共に再建し、氏神として厚く尊崇した。

枚方市指定文化財

『算額』

神社仏閣の絵馬堂、拝殿に奉掲されている絵馬のうち、数学の絵馬を算額といいます。大阪府に残る十数面のうち、北河内には国中神社(四條畷市)と当神社に貴重な二面が残されています。殊に算額は自身の研究を発表する手段として奉納され、神仏の加護により、更に数学者としての上達を祈念する願望が込められています。当神社の算額は縦八三センチ、横一〇五.八センチ,枠幅一〇.三センチと小型ではあるが四隅を飾金具でとめた重厚な額です。文久元年(一八六一)に厄災病難除けとして御神徳の篤い素盞鳴大神を奉祀する牛頭天皇社、祇園社)、後の須賀神社に奉納されたもので、奉納者である岩田清庸の『順天堂算譜』には「所掲于河州枚方 牛頭天皇社者・・・・」とあります。
岩田清庸(一八一〇ー一八七〇)は、北摂麻田藩(現在の豊中市蛍ケ池)の人で、大阪順天堂の教授として活躍,安政四年(一八五七) の和算番付表には東の大関とあり『算学速成』など五部の書物を刊行しています。岩田家は大庄屋で摂州麻田藩に貢献した名門です。清庸は当地に縁故をたより病気療養のために滞在し、病の癒えた御礼にこの算額を奉納したことが、算額の末尾に記されています。